『苦労は買ってでもしなさい』といいますが・・・

苦労は買ってでもしろ、と昔からいいますね。

苦労はできればしたくないものです。

でも”苦労”は、この世に生まれた時から当然のようについてくるもので、人の業(仕事)であります。
人の成長には、とても必要なもの、エッセンスだと思います。
”苦労”の末、大きく感じ方が変わったり、環境が変わった、なんてことはたくさんありますね。


私にも心当たりがたくさんあります。

子供の頃に訪れる”苦労”は、子供自身では避けようがありません。
例えば、家庭の環境とか、どうにもこうにも変えようのないものです。
ひたすら与えられた環境の中で”生きることをする”しかないです。
子供にはよっぽどのことがない限り、選択肢は与えられません。

生きるために、大人・社会に依存をしなければならない訳で、自ずと本能的に順応することを学びます。
人には、適応することができる能力は十分に備わっています。

しかし、この適応は最適か?というと、そうではなさそうです。

昔も今も、家庭の環境で悲しい事故に巻き込まれる子供たちはたくさんいます。
自分の意思が主張できない、まだ自立ができない人にとっては、心にリスクを伴わなければならない、というのは実に辛いことですね。

先日、TA(交流分析)を学びました。

私の人生を振り返り、やはり子供ながらに”苦労”した経験を再び思い出したりしました。

人からみればそれは”苦労”ではない、と思われることも、本人には立派な苦労。

『なんで、こんな家に生まれたかな?』
『もしかしたら、実の両親ではないのかも』(当時流行ったドラマ『赤い運命』のように)

子供の頃、寝床の天井を眺めて、よく勝手に空想に耽って思ったものでした。
一生懸命、環境に適応しようとしていたのかもしれませんね。

TA(交流分析)の分析によって、深いところにある心の矛盾と葛藤を再び思い起こしました。

忘れた記憶の中に、今の”心のクセ(歪み)”を見つけられるかもしれないかも・・・
この期待通りに、適応の中の”矛盾”を見出すことができました。

自分自身で書き下ろした人生のシナリオ(脚本)は、明らかに主観的で、他者を排除している風でした。

NLPでいえば、タイムラインを描き、そこを歩くようなものです。
ライン脇からライン上から、ディソシエイトして自分の様子をあらゆる角度でキャリブレーションするイメージです。
客観的に観ることで、多くの情報、感じ方が得られるので、”いかに歪曲された部分を保有しているか”
たくさんの驚きと発見があるものです。

”適応”をすることは、”生きること”。

適応は苦労であり、人は苦労して適応し生きて抜くことなんだと。

適応しなければならないのは、生きるためなのかもしれない、と私は感じました。

”苦労”した中で、心の成長が得られる、それが”幸福”の訪れというものなのかなと思いました。

先日観た映画『なぜ生きる』、100万部のミリオンセラーにもなった書籍がありますが、
セリフに『どんなに苦しくても、生きねばならぬのは、私たちにとっても大事な目的があるからだ』とありました。

その目的とは?

自分に起きた、また起きている”苦労”の中に”ある”のかもしれませんね。